子どもの頃から絵を描くことが好きで
漫画家になりたいなぁと
思ったこともありました。
しかし
なにしろ、父がプロの画家
他に一切副業をもたず
絵一本で、私たち家族を養い
私と弟を大学院までやった人に育てられたので
絵で生きることに関しては
甘い考えをもつことは出来ずに育ちました。
父は、あるとき私の絵を見て
なかなか上手いが
おまえには才能はない
努力して学べば
ある程度のところまでは
行くことができるかもしれないが
いわゆる「抜群」の絵描きにはなれまい
と、言いました。
物語を書くことに関しては
なにを言われようとも
あきらめるということすら、頭に浮かびませんでしたが
絵に関しては
私自身が「そうだろうな」と感じていました。
自分が見ているもの
心に描いているものを
描くことができなかったからです。
プロの芸術家の家族に生まれると
技能がないのに
作品を外に見せることを
異常に恥ずかしく思うようになるようで
私は、大人になってからは
好きで描いていた絵を
仲の良い友達には見せても
それ以外の人に見せることはありませんでした。
唯一の例外は
ティティランはこんな感じです、と
二木さんにお見せしたことと
チャグムはこういう感じの少年です、と
佐竹さんにお見せしたこと、ぐらいでしょう。
プロ中のプロお二人に見せることには
かなりの恥ずかしさというか
心の中での抵抗感はあったのですが
そのときは、必要があったので
仕方がないと思いきりました。
それから、かなりの年数が経ち
五十も半ばを過ぎた今
己を守りたいという感じが少し薄れてきました。
どうせ、みなさん
私が素人であることを知っておられる
素人の手遊びで
笑ってもらえるなら、まあ、それも一興
お金をいただくわけじゃなし、という
のんびりとした気分がでてきたのです。
母が逝ってからの日々
私は随分と、絵を描くことで救われました。
製図用のシャーペンで
ただ、黙々と人の顔や生物、建物などを描くだけですが
そうして手を動かしているときは
頭を巡る思いに苦しまずに済むので。
これは、聖路加の病室で
目の手術をした翌日に
せっせと描いていた絵です。
大好きな画家、熊谷守一氏のことを
聖路加の津田篤太郎先生とお話しながら
ネットで
熊谷守一氏のお写真をみたとき
あまりにも良いお顔をしておられるのに驚愕し
猛烈に描きたくなったのです。
お写真に関する権利を持っておられる
熊谷守一氏の御息女にお尋ねして
好きに描いてくださっていいですよ、という
ご快諾をいただいて描いた絵です。
昨日あたりから書店に並びはじめた
『ほの暗い永久から出でて』(文藝春秋社)の挿画は
私が描かせていただいたのですが
そこには、この絵とは、わずかに違う
熊谷守一の顔を載せていただきました。
見比べていただけたら
同じお顔を描いた絵でも
随分と雰囲気が違うなぁと思われることでしょう。
母が進行した肺がんであることを知り
家族で、母の最後の日々と向き合わねばならなかった
二年間
私は物語を書くことができませんでした。
そのかわり
生と死について思い、考えながら生きる
その生々しい過程を
母を診てくださっていた医師の津田篤太郎先生と
語り合う書簡を交わしました。
宮部みゆきさんが
この本はホットミルクのように
よく効いた、と、おっしゃってくださいましたが
私自身にとっても
この往復書簡は救いでした。
もう少ししたら書店に並ぶ
『物語と歩いてきた道』(偕成社)でも
祖母と幼い私の絵や
銀座の和光の絵などを載せていただきましたので
笑ってください。
私はやはり
書くことでしか、己を救えないようです。
文を書き、絵を描くことに
救われて
なんとか、かんとか
日々を過ごしています。